英語には多くの「方言」が存在します。
例えばアメリカ国内だけでもミシシッピ、カリフォルニア、ニューヨーク等、同じ国でも地域によって英語の音声・音韻的特徴や語彙、慣用句の使用等で様々な違いがあります。
アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、アイルランド、インド、南アフリカ、カメルーン、シンガポール、ケニア等英語が公用語、もしくは公用語の1つとして制定されている国々の間でも、話される英語に大きな違いがありますね。
私達が話す日本語でもそれは例外で無く、東京標準日本語、東北諸方言、近畿諸方言等、本当に多様性に富んでいます。
本来「方言」を指す英語の「dialect」と言う言葉は実は社会言語学では近年使用されなくなってきており、代わりに「variety」という言葉がより多く使用される傾向があります。これは言語内の多様性が地域のみに根ざしたもので無く、年齢、性別、人種、宗教、社会階級、職業等様々な要因で起こりうるからです。
とは言え、上記は全て「英語の方言」、「日本語の方言」として1グループとして扱われることが多いですよね。
これは何故でしょうか?
一般的に認知される回答としては、これらの方言は「同じ言語の中に存在する異なるバラエティ」であるため、「相互で理解・意思疎通し合うことが可能であるから」が優等生的でしょう。これを社会言語学で「Mutual Intelligibility(相互理解可能性)」と呼びます。
一見納得のいく回答に思えますが、実はここに落とし穴があるのです。
例えば、北京語と広東語は両方が「中国語」の方言として考えられていますが、お互いに理解し合うことは不可能です。
では何故この2つを「中国語の方言」と呼ぶのでしょうか?
反対にスペイン語とポルトガル語は2つの異なる言語として認識されていますが、80%程度の精度で意思疎通が可能だとも言われています。(89%の語彙が重複) では何故この2言語は「同一言語の中にある2方言」ではないのでしょうか?
同様に、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語はぞれぞれ独立した言語であると認識されていますが、程度に差はあれど相当な精度で相互に意思疎通が可能です。
アイスランド語とフェロイーズ語も歴史的な観点から言って非常に類似点が多いことで知られます。
ロシア語話者はかなりの割合でウクライナ語及びベラルーシ語の理解が可能です。
セルビア語とクロアチア語、そしてマレーシア語とインドネシア語も、構造的にはほぼ同一言語と言っても過言では無いでしょう。
お互いに意思疎通が取れない2つの言葉のバラエティーが「同一言語内の2方言」とされているケースと、逆に互いに相当なレベルで意思疎通が取れるのに「独立した2言語」とされるケースが世界中で散見されるのです。
では結局何が「言語」と「方言」の間の境界線となるのでしょうか?
もうお分かりいただいている方もいっらしゃることと思いますが、その通りです。
言語と方言を分けるのは発音や文法構造といった要素ではなく、「political decision」即ち「政治的な決定」に他ならないのです。
国家としてのアイデンティティの確立のため、単一言語を掲げるのであるという’政治的意思決定’こそが、「言語」と「方言」を区別する要因です。即ちこれは「言語政策」なのですね。
ご存知の通り、日本も実は単一言語国家ではありません。
UNESCOは2009年に、日本国内に存在するアイヌ語、八丈語、奄美語、国頭語、沖縄語、宮古語、八重山語、与那国語の計8言語が消滅の危機に瀕していると警鐘を鳴らしました。
UNESCOがこれら8つを「方言」では無く「言語」として位置づけた理由は、「これらがお互いに意思疎通が取れないレベルで異なっているから」であったと言われています。(Takubo, 2018)
まとめ
如何でしたでしょうか?
普段当たり前に使用している「言語(language)」と「方言(dialect)」という言葉も、実は言語学的な定義は無く、言語政策の一環として恣意的に区別されていることがお分かりいただけたと思います。
皆様が今まさに話しているその’言葉’、「方言(dialect)」でしょうか、それとも「言語(language)」でしょうか?
参考文献
Takubo, Yukinori. (2018). How many languages are there in Japan?.